コラム2: エンドオブライフを意識して、住みたい場所で、自分らしく

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コラム2: エンドオブライフを意識して、住みたい場所で、自分らしく
医療法人拓海会大阪北ホームケアクリニック院長 白山宏人さま
(JSP第3期生、認定エンドオブライフ・ケア援助士、認定ELCファシリテーター)

はじめに

 大阪府の北部で在宅医療に従事しております白山と申します。私は元々経済学部の大学生でしたが、思うところもあって医学部に再入学し、早いものでそれから30年が過ぎました。進路変更にもちろん不安も大きかったのですが、友人の「ええんちゃう!(「いいんじゃない」「それでいいよ」、という意味です)」の言葉にも後押しされ、今に至っています。「ほんの些細な言葉でも人生を変える力がある」と言葉の大切さを今でも感じています。

 在宅で関わるに際しては「個々の生活を意識した医療とケア」が大切と思っています。関わる患者さんや御家族の状況は様々ですし、大変全身状態が厳しい中で診療開始となる場合もよくあります。どんな状況であったとしても、家での療養を希望される方々の力になることができればと思い、日々走り回っております。

 大阪のお国柄として「やってなんぼ」と言って「何かやってあげたい」と人情的な部分に重きを置く傾向があります。しかし苦しむ患者さんや御家族を前にして、地域の様々な職種の方達が、例えば「何もやってあげられへん!(何か自分がやれることはないのだろうか・・・という意味)」等のジレンマを抱えて悩まれている状況をよく目にします。どうすれば苦しむ方達の力になれるのか、病院、在宅、各職種がそれぞれ点で関わるのではなく、線として協働で関わり、更に地域の多職種が統合して面となって、患者さんや御家族を支えていけるような地域づくりが私の目標でもあります。

 小澤竹俊先生とのご縁があって、エンドオブライフ・ケア協会の研修の前身である、JSP(人生の最終段階に関わる人材育成プロジェクト)を3期生として受講しました。(ちなみにスピリチュアルケアに関わっている家内は2期生です) 受講して実感したことがいくつかありますが、ここでは身近な体験を踏まえて1つご紹介したいと思います。

エンドオブライフを意識する

 「ライフ」という言葉には、生命という意味だけではなく、人生、生活、生き甲斐等の意味もあります。患者さんと御家族がエンドオブライフ、つまり人生の最終段階を意識した時、それが新たなライフに気づくきっかけとなることがあります。限られた時間であったとしても、その中で一生懸命、今できることをやり、共に過ごす時間を重ねていかれる、そのような場面を多く目にしてきました。そのような状況は、患者さんと御家族の大切なつながりにもなっていると感じています。

 エンドオブライフを意識することについて、私が82歳の義父を自宅で看取った時のお話をさせて頂きます。

 義父は各地の教会で牧師として従事し、77歳まで勤め上げた後は、生まれ故郷の長野県安曇野市で過ごしておりました。そんな矢先の平成26年3月に突然の腹痛があり、地域の基幹病院に救急搬送されました。そこで胆嚢癌の末期で腹膜播種を認め、余命は1~2か月と宣告を受け、「病院ではやることがないので、自宅かホスピスどちらかを決めて下さい」と伝えられました。ホスピスまで片道2時間かかり、80歳前の義母が通うには負担も大きく、周囲に在宅ケアを受ける体制もありませんでした(少なくとも情報は提供されませんでした)。

 義父は日頃から私の仕事を理解しており(昔牧師として赴任していた教会で在宅緩和ケアについてお話させて頂く機会があり)、エンドオブライフ・ケアを受ける事は思ったよりもスムースに決断しました。安曇野で過ごしていくには難があったため、長女である私の家内が住む大阪に呼び寄せました。老夫婦にとって住み慣れた故郷から大阪に移ることは大変な決断であったと思います。ただ、セカンドライフを過ごすに際し、これまでと環境が全く違った生活は、却って良かったのかもしれません。

 伝えられた予後はすぐに過ぎ、「予定ではすでに箱に入って長野に帰っているはずだったんだが・・・」と言いながら、初めて食べるお好み焼きやたこ焼きを美味しそうに頬張り、アナと雪の女王を家族で見に行き、大きな音に耳を塞ぎながら見ていた姿が今も思い出されます。7月には近くの教会のご厚意で最後の説教をさせて頂きました。遠方に住む家族も一緒にわいわいと集まったことも大変貴重な時間でした。

 みんな限られた時間の中で一生懸命、今できることをやり、共に過ごす時間を重ねていたように思います。そのような光景は、「有終の美」という(終わり良ければ全て良しということではなく)「限りあることを意識していく中で生まれてくる大切なもの(美しいもの)」というイメージを持ちました。

 結局は夏も秋も越しましたが、秋の終わり頃からは徐々に歩行も低下し、ベッドで横になる時間も長くなってきました。ただ、そのような中にあっても孫が訪ねてくれば、これまでと同じように頑固爺となって説教し、少しずつではありますが、好きな物を食べて過ごしておりました。

 ある日、長女が口腔ケアをしている際に気持ち悪そうな顔をした義父を見て「もうこれ以上はどうにもならないよ」と言うと、義父は「それでも最善をつくしなさい」と言いました。立ち振る舞いは終末期の状態であったとしても義父らしい言葉ではなかったかと感じております。

 11月末には家族全員に手紙を書き、自分の葬儀の段取りも指示し、長男と長女には「もう12月の初めにはこの世にはいないぞ」と伝えていました。その際に長男は「月初は忙しいから月末の方が助かるよ」、長女は「クリスマスは牧師様がお忙しいからダメよ」と唐突な義父からの投げかけにも関わらず、二人ともにっこりと答えていました。医療者の私が見ていると年内かなと感じ、家族皆に余命を伝えていましたが、気持ちはしっかりしていたので、あまりそういう実感は誰にもなかったようでした。

 12月25日は皆でクリスマスケーキを食べましたが、翌朝義母がふと顔をのぞくと、子ども達の言いつけを守ったかのように息を引き取っていました。苦しそうな顔ではなく、穏やかな最期でした。葬儀も義父が決めた段取りで長女が讃美歌を演奏し、義父の好きだった聖書の言葉を朗読して別れを告げました。

 大阪に来て8か月でしたが、大変濃厚な時間でありました。今でも家内はその扉から「やぁやぁ」と出てきそうな気がすると言います。介護中はやせてしまった義母ですが、役割を終えた安堵感からか現在は体重も元に戻り、サードライフをこの大阪で過ごしています。本人も家族もエンドオブライフを意識して、住みたい場所で、自分らしく過ごしていたと思いますし、それが本人へのケアでもあり、家族の悲嘆のケアにもなったのではないかと思っています。

 全てが思うようにいくとは限りません。ただ、エンドオブライフを意識して生活することは少なくとも不幸せではないと私は思っております。私もこの貴重な時間を糧とし、また地域と関わっていけたらと思っております。

エンドオブライフ・ケア協会では、このような学び・気づきの機会となる研修やイベントを開催しております。活動を応援してくださる方は、よろしければこちらから会員登録をお願いします。

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