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コラム61:私の宝 ―『聴く』と『支え』


さがらパース通りクリニック 医師 小齊平 智久さま
(ELC第39回生、認定エンドオブライフ・ケア援助士、認定ELCファシリテーター)

【私が医師になるまで】

私は生まれつき体の弱い子供でした。発熱が毎日のように続き、鹿児島大学病院で精密検査した結果、先天性心疾患(ファロー四徴症)でした。

昭和50年当時は5歳まで成長しないと手術出来ない、しかも成功率30%のかなり難しい手術だったそうです。その難関を、私も5歳のときにクリアしました。

しかし、それは新たな苦しみの始まりでもありました。

小学校入学のとき、主治医の先生からの「水泳と長距離走は禁止。それ以外の体育はしていいよ」が、両親から担任へ「体育の授業は涼しいところで見学」と伝わり、クラスメートからも「心臓が悪い子、体育は見学」というレッテルを貼られ、学年が上がっても、そのレッテルが剥がされることはありませんでした。

・一度貼られたレッテルって、なかなか剥いでもらえない

肉体的ないじめはありませんでしたが、精神的ないじめは多々ありました。仲間外れなんて日常茶飯事。「近寄るな!心臓病がうつる!」と囃し立てられたこともありました。

私の苦しみをきいてくれる人は、大人も含めて誰一人いませんでした。

中学生になると、さすがに体育をあきらめ、女子にモテることもあきらめ、ガリ勉くんになりました。

・希望が叶わない状態が続くと、あきらめに変わる

親戚に医師はいませんでしたが、「ガリ勉くんだし、学業成績は優秀な方だし」ということで、周りから医師になるよう運命づけられました。

体育に関しては、高校生のころには「私は軽い運動しかやっちゃダメな人」と、自らレッテルを貼っていました。

・あきらめが続くと、思考停止する

しかし、医学部1年(19歳)の時、全ては一変しました。同級生は年齢も背景もバラバラ。
誰も私を特別視せず、ごく普通に接してくれました。

「ようやく会えた!心臓のこととか一切関係なく普通に接してくれる人たちと!」

・普通に接してくれる、これがどんなに嬉しかったことか

だから、つらい解剖実習も、ポリクリ(大学病院での病棟・外来実習)も頑張ることができました。

そして26歳、医師になりました。

 

【私の中の『医師』が出来上がるまで】

大学病院に入局した私を待ち構えていたのは、地獄のような日々でした。

上司のパワハラ、労働基準法無視の長時間残業、それでいて年収300万未満。

さすがに言いたかった。「私は心臓の手術をしているんだ!もっと大事に扱え!」って。

だけど言えなかった…。打ち明けることが出来たのは『コオロギ先輩』(あだ名)ただ一人でした。

・苦しみは誰にでも打ち明けるわけではない、人を選ぶ

当時の私の支えは「先生」と呼んでもらえること。「先生になれたんだ!」それだけで何とか心を病まずにすみました。

2~3年目は地方病院へ出張。このころには「先生」呼びが当たり前に。学会でも「先生」、宴会でも「先生」、妻の親戚からも「先生」。

4年目は大学病院に戻る年。このころには「先生」と呼ばれないと、ムッ!とするようになっていました。患者さんを一時間ぐらい待たせるのなんてへっちゃら。

5年目は専門を決める年。研修医のころは「心臓手術の経験から循環器内科かな?」と思っていましたが、出張先で消化器系の指導医が多く、結局、消化器内科を選択しました。

しかし、またもや始まる上司の執拗なパワハラ、労働基準法無視の長時間残業、しかも給料ゼロ(無給医)。

ほとほとイヤになって大学病院を辞め、急性期病院へ就職。しかし4~5年で燃え尽き、療養病院へ就職しました。

 

【私の中の『医師』が崩壊するまで】

療養病院でも、手に入れた医療技術を遺憾なく発揮し、胃瘻造設術の件数や所要時間を手柄のように話していました。そんなある日のこと。

「先生、ここに入院中の患者さん達は本当に幸せなのでしょうか?」

訪問歯科医のO先生でした。カチンときました。「歯科医の分際で無礼な!」と。

無視していたのですが、その後もしつこく話しかけてくるのです。

「先生、『鹿児島医療介護塾』という学習会を月一回開いていますので、是非いらしてください」

あんまりしつこいので根負けして「じゃあ一度だけ」と。平成25年10月のことでした。

『鹿児島医療介護塾』当時は30人ほどでした(現在は300人)。みんな温かく迎えてくれましたが、白衣を脱ぐとたちまち人見知りになって、何を話せば良いのやら…。医師は私以外にもう一人、M先生がいましたが、彼は医者のプライドを捨てた『医者もどき』でした。

鹿児島医療介護塾にはルールがありました。「お互い『…さん』と呼びあうこと。『…先生』『…様』は禁止」これ、かなり抵抗がありました。慣れるのに実に8ヶ月を要しました。

我ながらよく参加し続けられたものだと感心しますが、ぶっちゃけ超エリートのIさん(NHK記者)に会いたい一心でした。

ある日、病院に取材に来られたIさん。意思疎通不可のAさん(当時86歳)と向かい合って座り、ジ~ッとビデオカメラを構えていました。私は「何やってんだろう?」と遠巻きに眺めていましたが、30分ほど経ったころでした。

「小齊平さん!ついにやりましたよ!」大はしゃぎのIさん。再生してみると「アイ、アイス、アイス、アイスクリーム」え?たったこれだけ?これだけのために30分?

「なんでそこまで?記者としての執念ですか?」私が尋ねると、「え?声を聴きたくないですか?ただそれだけですよ」と笑顔で答えるIさん。

・一度貼られたレッテルって、なかなか剥いでもらえない

『聴く』ってレッテルを剥がすことに繋がるのかな?

Iさんに倣って、私も鹿児島医療介護塾のメンバーを相手に『聴く』を始めましたが、これがなかなか…。というのも、今まで一度も『聴く』を習ってこなかったからです。

それでも思いは通じたのでしょう。「小齊平さんのように、医者でもフラットに接してくれる人がいると思うだけで心強いです」と。

 

・普通に接してくれる、これがどんなに嬉しかったことか

『普通に接する』=『聴く』なのかな?きっとそうだ!そうに違いない!

『聴く』がきっかけで人脈が広がりました。同世代の医療・介護・福祉分野のトップランナー達に次々に会えました。畑違いのご住職とのご縁にも恵まれました。

専門外の学会やセミナーにも積極的に『聴き』に行きました。食医から「喋れる人はもちろん、自力で口を閉じられる人は少しでも食べられる人です」と聴いては『禁食』のレッテルを1年間で14人剥がし、臨床倫理の大家から『人工栄養中止』の講演を聴いては『胃瘻は一生モノ』のレッテルを5人剥がし。

「『聴く』ってすごいな!」が、いつしか「『オレ』ってすごいな!」に。天狗になっていました。

 

【ようやく『聴く』を知る】

ある日、鼻っ柱をへし折られます。非常勤医として週1回勤務していたMさんです。そう、私が『医者もどき』と呼んでいたMさん。

「コサちゃんさぁ、話せない人の思いって全然聴いてないじゃん!」

「見てごらんよ、ほら。あのじいちゃん、椅子にず~っと座らされて目はうつろじゃん?もうあきらめちゃってるよ。あのばあちゃん、寝かされっぱなしでボーッとしてんじゃん?思考停止しちゃってるよ」

「コサちゃんもさぁ、思考停止しちゃってんじゃねーの?」

辛辣な言葉を浴びせられ、ぐうの音も出ない私。

「だってオレの『聴く』が全く通用しないんだもん」と言い訳するのがやっと。

・希望が叶わない状態が続くと、あきらめに変わる

・あきらめが続くと、思考停止する

思春期のツライ思い出が蘇ります。

「先生、ここに入院中の患者さん達は本当に幸せなのでしょうか?」

いつかのO先生の言葉が思い出されて心を揺さぶります。
「どげんかせんといかん!じゃっどん、どげんすれば?」
そんな時に出会ったのが、エンドオブライフ・ケア協会でした。

『苦しんでいる人は、自分の苦しみをわかってくれる人がいるとうれしい』

・苦しみは誰にでも打ち明けるわけではない、人を選ぶ

研修医のとき、苦しみを打ち明けることができたのは『コオロギ先輩』ただ一人。それは彼だけが私の悩みを聴いてくれたから。

こんな近くに『聴く』のお手本がいたのに、今まで気付かなかった…。

思えば私は、じいちゃん・ばあちゃんからみて『聴いてくれる人』になっていなかった…。

私の『聴く』は、単に私の知りたいことを『聞く』だったんだ…。

医師20年目にして、ようやく『聴く』を知りました。

 

【苦しみを通して見えてきた、大切な『支え』】

療養病院で『聴く』を身につけた私は、開業しようと思い立ち、毎晩のように関係者と打ち合わせをしていました。

そんな昨年2月のこと。発熱が毎日のように続き、顔も足もむくみ、時折意識も飛ぶため、ヨロヨロしながら病院を受診しました。待合室で4時間以上待たされた挙げ句、医師からの第一声「何でこんなになるまで放っておいたの?」。

血圧も血糖値も200以上。他の採血結果も正常値がほとんどありませんでした。

「入院しましょう。え~と入院日は…」一方的に話が続きます。

「ちょ、ちょっと待ってください。入院はできないのですが…」と伝えると、「何言ってるんですか!どうなっても知りませんよ!」と脅され、突き放されました。

「私もこんな…だったのか…」今更ながら反省。

「すみません、入院だけはご勘弁ください」と言うと、「仕方ないですね!これだけはキッチリ守ってくださいよ!」と。医師から告げられたのは、内服に注射に食事制限に運動療法に毎日の血圧・血糖・体重測定に…。

自業自得とはいえ、色んなことが一気に押し寄せてきて、途方に暮れ、そして後悔しました。

「せっかく成功率30%を勝ち抜いたのに。多くの方々に生かされた命なのに…」

晩酌ダメ。グルメもダメ。開業の話も流れ、自分に失望し、生きがいすらも失いかけました。

その時でした。小澤竹俊先生のお言葉が頭の中に浮かびました。

『人はただ単に苦しむのではありません。苦しむ前には気付かなかった大切な「支え」に気付くのです』

おっしゃるとおりでした。振り返ると、いくつもの『支え』が見えました。

濱田努先生をはじめELC薩摩の同志、鹿児島医療介護塾のみんな、井上ご住職とのご縁で知り合ったみなさん、先輩、同期、親戚、兄、妻、二人の娘。

一つ一つが輝いてみえました。「私は独りじゃないんだ!」そう思うだけで心が安らぎました。

 

【最後に】


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