エンドオブライフ・ケア協会
小澤 竹俊
新型コロナウイルスの拡散を抑制するため、ついに学校が全国で一斉に休校となりました。クラスターという言葉も出てきました。小さいお子さんがいる家庭では、仕事にいけないと感じている人もいることでしょう。これは有事です。多くの国民のいのちに関わる事件です。トップは、批判をされたとしても決断をしていかなくてはいけない時期となりました。
そのような有事の中、アルベール・カミュの小説「ペスト」から、不条理な今を生きるヒントを紹介しています。今回は、奪われた自由を取り上げます。
私たちは、基本的人権として、選ぶことができる自由を大切にします。歴史的にみれば、社会が成熟していないときには、個人の自由は制限が大きくなります。江戸時代には、士農工商として職業選択の自由はありませんでした。明治時代になって廃止されました。職業を自由選択できること、好きな人と結婚できること、好きな場所に引っ越しできることなど、社会は成熟すれば、個人の選ぶことができる自由は徐々に拡大していきます。
この選ぶことができる自由が奪われると、極めて大きな苦しみが表れます。
その典型例として、1人でトイレに行くことが出来なくなる苦しみを挙げます。本人としては、今まで通り、1人でトイレに行き自分一人で排泄できることを願います。しかし、さまざまな理由から、人生の最終段階では、一人でトイレにいけなくなります。このようなとき、「一人でトイレに行けないようならば、早くあの世に逝ってしまいたい」という言葉を、きわめて多くの人から伺うことがあります。
排泄は、選択肢として、一人で行くこと、車椅子でトイレに連れて行ってもらう、ポータブルトイレ、膀胱留置カテーテルによる排泄、紙おむつなどがあります。一人でトイレに行きたいのに、その選択肢を選べないこととして、ここは、選ぶことができない自由として考えます。尊厳が奪われ、家族や他の誰かに迷惑をかけたくない思いから、死にたいと思う気持ちは、まさに不条理な苦しみです。
小説ペストの中にも、新聞記者のランベールが登場します。彼は取材でオランに立ち寄った中で、ペストのために町の外に行くことが出来なくなりました。
そこで医師リウーに、病気にかかっていないという証明書を書いてほしい、そうすれば、町の外に出て、待っている女性のもとに行けるからと嘆願します。
「しかし、とにかく」と、ランベールはいった。「とにかく、私はこの町には無関係な人間なんですからね」
(中略)
「まったくばかげていますよ、なにしろ。僕は報道記事を書くためにこの世へ生まれてきたんじゃありませんからね。そうじゃなく、おろらく、ある女と一緒に暮らすために生まれてきたのかもしれないんです。こいつは道理にかなった言いぶんじゃないですかね。」
しかし、証明書を書いてもらうことができず町の外にいく自由が奪われたランベールは、駅の待合室にやってきて昔の時刻表や、壁に貼ってあるビラを眺めます。
ランベールはここで、窮迫のどん底に見出されるあのむごたらしい自由ともいうべきものに触れていたのであった。そのとき、彼にとって心に浮かぶのが最もつらかったイメージは、少なくとも彼がリウーに語ったところによれば、パリのイメージであった。古い石壁と水の風景、パレー・ロワイヤルの鳩、北停車場、人気のないパンテオン界隈など、その他自分がそれほど愛していたとは知らなかったその町の幾つかの場所が、そうなるとランベールの心に付きまとい、何ひとつ、これときまったことはできなくしてしまうのであった。
限られた自由の中で、ランベールにとってふるさとのパリを思い出す大切な場所が駅であり、その中に、少なくとも自分を待っている女性のことを思い出す大切な時間であったと思います。
これから多くの人が集まることを自粛しないといけない時期となりました。楽しみにしていた卒業式、行きたかった旅行、何十年ぶりの同窓会、この有事は、日常のあたりまえを奪っていきます。
自由は、人の尊厳を守るためにも大切な課題です。その一方で、自由は大切であるから何でもよいわけではありません。自由は、お互いに認め合うこと(相互承認)が大切です。それがなければ、社会は混乱するからです。(つづく)
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