一般社団法人エンドオブライフ・ケア協会
事務局長 千田 恵子
●健康で活動的な父が神経難病ALSに。
身体の自由は失っても、最期まで自分らしく生き、旅立ち、私の中で生き続ける
写真は2011年、父母と弟と私で、ホノルルマラソンに参加したときのものです。私と弟はフルマラソン、父母は10kmウォーク。老後は毎朝二人で散歩を欠かさなかった父母は、このときが三度目の挑戦でした。早く早くと、母に急かされながら歩みを進めた父。身体の不調を訴えながら、1年後に消去法で判明した病名は、筋萎縮性側索硬化症、通称ALSでした。
人工呼吸器を装着しなければ、多くの方が2~5年で呼吸が難しくなる病気です。命に期限があることをはじめて考えるようになりました。父は、五感などを除きあらゆる身体機能をじわじわと失っていく中、生きる意味や目的を再発見することに苦しんでいたのでしょうか、「毎日負担ばかりかけて、なんのために生きているのか」などと吐露することがありました。一方で、これから先どのように過ごしたいか、また最期をどのように迎えたいか、早くから本人の意思は固く決まっていました。死を覚悟したときから、娘である私とは継続的に言葉を交わしていたため、意識を失った後、私が立ち会い、本人の意思を尊重して見送ることができました。
その間、会社の理解を得て、在宅勤務をしながら、介護教室で覚えた身体介助をしながら、父母との穏やかな時間を過ごす・・・。思えばこんなにも親の心と触れ合う時間は、大人になって以来、初めての経験でした。
●生きる意味を見失った母。百箇日を終えて、父の元へ旅立つ
長年連れ添い、いつも父の半歩後ろを歩んできた母。訪問診療、介護の方々からお力添えいただきながらも、自らも早朝から深夜まで、必死でした。しかし、まさか意識を失った父が搬送先の病院で亡くなるとは思わなかった母は、父の最期の瞬間に立ち会えず、その死を受け入れることができず、後で思えば生きる意味をも見失ってしまったかのようでした。そして父の死から3か月後、ある日突然死を迎えます。落ち込んでいる母を励ますことしかすべがなく、時に「あんたにはわかんないよ」とまで言わせてしまった私の中には、「なんでもっと…」と、無念な気持ちが今も残ります。
それでも、しいて言うなら、「やっとゆっくり眠れるね」「お父さんとまた一緒に“あじさいロード”を歩けるね」。二人の死を経て、私はこのように意味づけをしています。
●医師 小澤との出会いから協会設立へ
そして二人を続けて失った後、今度は私自身が生きる意味を失いました。
そのとき出会ったのが、ともに当協会を始めた小澤です。事業の立ち上げは、自分にとって必然でした。
人生の最終段階という短く濃い時間を父母とともに苦しみ悩んだことは、今の自分に生きる意味と目的を与えてくれています。しかし一方、どのように生きるかは、病を得てから考えるのではなく、望ましくは人生の早い段階から、そして家族を含め、自分の人生に関わる人たちとも、継続的に行っていけることが、私にとっては理想的であり、それが本人の安心にも、残された家族や関係者の安寧にもつながるのではないかと、今にして思います。そしてそのことが、結果として限られた医療資源を守ることにつながるのではないかと考えます。
在宅医療を推進する国の方針や、本人や家族の意向で自宅や介護施設で最期を迎える人が増えているなか、関わる専門職や家族の中には、最期を看取ることに戸惑いや不安を感じている人が少なくないと言います。地域で尊厳ある最期を迎えられるようになるために、バラバラになった様々なつながり(①人生のフェーズ、②家族、③地域の中で関わる様々な関係者)を、取り戻していくことが必要ではないかと考えます。
鍵となるのは、目の前で苦しんでいる人がいるときに、「苦しんでいる人は、自分の苦しみをわかってくれる人がいるとうれしい」ことを心に留め実践すること。地域や年齢や職種に関わらず誰もができるものであること。そのためには、苦しむ人との関わりを、具体的な言葉にし学べるようにすること。そして、一方が他方にケアを提供するのではなく、お互いが支えになるコミュニティを広げていくこと。これらにより、人生の最期まで自分なりに幸せに暮らすことができる社会であってほしい。労働人口が減少する中、看取りや対人援助が一部のエキスパートにしかできない奥義であってほしくはないですし、大人から子供まで誰もが自分ごととして考えられる、そんな世の中を実現したいと願っています。
エンドオブライフ・ケア協会では、このような学び・気づきの機会となる研修やイベントを開催しております。活動を応援してくださる方は、よろしければこちらから会員登録をお願いします。
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