不条理な今を生きていくこと その8:意思決定とジレンマと後悔

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エンドオブライフ・ケア協会

小澤 竹俊

 先週から重たいテーマを取り上げてきましたので、今日は、少し話題をかえて、意思決定とジレンマと後悔を紹介します。人生は選択の連続です。中学や高校の時にはどの部活動に所属するのか、しないのかを決める選択があります。サッカー部と陸上部のどちらにしようか悩む人もいるでしょう。もちろん帰宅部に所属?する人もいるでしょう。ちなみに私は、中学はバスケットボール部、そして高校は天文部、大学は疫学研究会、硬式野球部と学生会に所属していました。

 

 人生の選択はクラブ活動だけではありません。文系・理系という選択、希望する学校の選択、さらには就職先の選択、人生のパートナーとの選択、あるいは今日の昼ご飯をどうするかということも含めて選択の連続です。

 

 何かを決めるとき、1つの大きな問題が浮上します。それは、どちらの選択肢も良いことだけではなく、良くないことも含むのです。有名な逸話(トロリー問題)に、線路の上に制御不能のトロッコが暴走していて、まっすぐ進むと5人の人が線路上で作業していて惹かれてしまう。その手前のポイントで線路を切り替えれば、助かる。しかし、切り替えた先にも1人が作業をしていて惹かれてしまう。どちらを選んでも、負の出来事があり、選ぶ人がその判断を決めかねることをジレンマと言います。

 

 医療の現場では、認知症の高齢者が自宅で肺炎を罹患したとします。もし入院をすれば肺炎は改善する可能性が高い。しかし、入院すると手足を抑制されることが予想される(すぐに点滴などを抜くことは、過去の経験から明らかだったので)。一方、自宅で療養すれば手足を縛られることはなく、いつもの笑顔で過ごすことが出来るであろう。自宅で抗生剤などの治療を行うことはできたとしても、使える抗生剤には限りがあり、もしかすると改善せず亡くなってしまうかもしれない。このようなケースは、実際にしばしば経験します。そして、どちらを選んでも後悔します。

 

 もし病院を選んだにも関わらず、肺炎の改善がなく、亡くなってしまうと、病院ではなく自宅で最期を過ごすことを選べなく後悔するかもしれません。自宅で療養を選び、やはり亡くなってしまえば、入院すれば助かったかもしれないと後悔します。

 

 何かを選ぶことを支援する上で、私たちは、どちらの選択肢も良い面だけではなく、良くない面を含むことを意識しなくてはいけません。なぜならば、決めた人が、のちのち後悔するからです。

 

 ただ専門的な情報を一方的に伝えて、あなたが決めなさい、その代わり、決めたあなたがすべての責任を負うのですよという援助は、決めた人の苦しみは甚大です。

 

 実際には、本人の判断能力や推定意思なども含めて紹介したいところではありますが、ここでのポイントは、どちらを選んでも後悔する選択をどのように支援してくのかが課題であることです。

 

 援助とは、相手が穏やかに過ごせることをゴールとします。ここでいう相手とは、本人だけではなく家族やスタッフも含めてです。一人で決めない、一回で決めない、専門家の言いなりにならない。みんなで話し合い、悩みながら決めた選択肢は、決めた内容がどちらであっても後悔が少なくなるからです。

 

 このように表現すると、“話し合えばよいですね”となるのですが、肝心なことが抜けています。それは、苦しんでいる人は、自分の苦しみをわかってくれる人がいると嬉しいということ。この視点が抜けた話し合いは、何時間かけて話し合っても後悔が残る話し合いになるでしょう。わかってくれる誰かとは、聴いてくれる人です。それも、自分が聞きたいことを聞く人ではなく、苦しんでいる人がわかってくれたと思える聴く人です。(援助的コミュニケーションといいます)。

 

 新型コロナウイルス感染という不条理な世の中にあって、いろいろなことを決めていかなければいけません。その判断は、ゆっくり話し合うだけの時間がないこともあります。決める人は、その責任を負うことになります。

 

 皆さんは自分自身の悩みや苦しみをわかってくれる人はいるでしょうか。不条理な社会にあって、私たちが生きていくためには、自分の苦しみをわかってくれる誰かの存在が欠かせません。そこに1つの光が見えてくると感じています。(つづく

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