<経験を積むあまり 大切な感性を失うなかれ>

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 何事も経験は大切です。はじめからうまくいく人はほとんどいません。料理を作ることも、楽器を演奏することも、人前で話をすることも、最初は失敗することが多々あります。うまくいかなくて、取り組んだことを止めてしまう人もいるでしょう。それでも根気よく続けていくと、だんだんと上達していきます。

 

 医療のように専門性の高い職種も同じです。採血や点滴などの血管確保の技術、内視鏡や超音波検査などの技術も経験とともに磨かれていきます。やがて1つ1つの経験は、自信となって態度に表れます。

 

 一般の人と医療者との間で、最も違いが顕著なことを1つ挙げろといわれれば、皆さんは何を思いつきますか。資格があるかないかということではありません。私であれば、人に針を刺して、ある程度の血液を採取することを挙げます。(少量であれば、自己血糖測定として、本人も家族も採血が簡便な時代となりましたが…)

 

 つまり、採血や点滴などの血管確保は、今まで一般の人であった医学生、看護学生が、国家資格を得て一人前になるための大切な技術であり、そのための経験は大切です。(ちなみに臨床検査技師も採血が可能です)

 

 駆血帯で軽く腕をしばり、肘の内側にある静脈を探すのが一般的です(正中皮静脈と言います)。しかし、一部の人は、どれほど目をこらしても、まったく採血にふさわしい正中皮静脈が見当たらないことがあります。このような条件での採血は、新人の研修医や看護師にとって大きな壁となります。むやみに針を何回さしても、針は血管の中に入らず、何度も針を刺し続ける最悪の結果となります。

 

 ところが、経験を積むと、探し方1つ変わります。肘の内側に正中皮静脈が見えないときには、無理に見えない肘の内側にはこだわりません。採血の一番のこつは、採血にふさわしい静脈を探すことから始まります。もし適切な静脈を見つけたならば、採血の瞬間、その静脈が逃げないように、針を持つ右手だけではなく、左手で静脈を少し引っ張ることが肝要です。さらには、針を刺す瞬間も、ある勢いがあると、不思議に痛みは少なく採血できるようになります。

 

 少し専門的な話を紹介しましたが、何事も経験が大切です。この経験があればこそ、多少の血管が見えにくい人の採血でも、笑顔で大丈夫ですよ、心配ありませんと声をかけることができるでしょう。

 

 医療に限らず、すべての技術職は、経験とともに自信をつけ、その自信が態度として現れてきます。それは、あるときは安心感として、あるときは信頼として、苦しむ人の力になることでしょう。

 

 しかし、良いことだけではありません。経験を積めば積むほど、大切な何かを失う危険性があるからです。それは、専門的な経験があるゆえに、今まであたりまえであった日常から、徐々にずれていくことです。

 

 今から20年以上前のことです。まだ私がホスピス病棟で働き始めて2-3年の駆け出しの頃でした。少しでも患者さん・家族の苦しみに気づくため、感性を磨きたいと強く思っていた頃でした。ある時、障害者教育を専門とされている先生の教室に伺う機会がありました。その様子をうかがいながら、私がその先生にたずねました。どうしたら、感性を磨くことができるでしょうか…と。

 

 すると、その先生は笑顔で、子どもたちから学ぶのですよと教えてくれました。そして、私に次の問いが投げられました。

 

 「小澤さん、イソップのアリとキリギリスの話知っていますか?」

 

 私は、「もちろん知っています」と答えました。「アリは夏の間、働いていました。ところがキリギリスは遊んでばかりいました。やがて冬が来て餌がなくなってしまいました。アリは働いていたため餌がありましたが、キリギリスは遊んでいたため、食べる餌もなく困ってしまいました…という話ですよね。」

 

 先生は笑顔でうなずきながら答えました。

 

 「そうですね。確かにイソップの話は、そのようなストーリーでした。しかし、ある子は、その話をきいて、別な話をするのです。小澤さん、どのような話になるかわかりますか?」

 

 私はしばらく考えてみましたが、まったく想像ができませんでした。そして、先生はその答えを教えてくれました。

 

 「ある子は、アリはわがままだというのです。困っているキリギリスを助けようとしないから…」

 

 その話を聞いてなるほどと思いました。確かにアリは困っているキリギリスを助けようとしませんでした。もし、私たちは、誰かが困っていれば、その人を助けようとします。ですから、アリはとても利己的で、自分だけがよければよい生き物に見えてきます。でも、キリギリスは遊んでいたから、仕方がないのかなとも考えていました。しかし、先生は続きの話を教えてくれました。

 

 「話は、それだけではありません。その子が言うには、キリギリスは遊んでいたのではないというのです。キリギリスが音楽を演奏すると、あたりを涼しくすることができる。実はキリギリスは、熱い夏のあいだ、みんなのために、働いていた。しかし、誰からも認めてもらえず、かわいそうな生き物だ…」

 

 私は、ここまで聞いて、頭をカナヅチで叩かれたような衝撃だったことを今でも忘れられません。それまで、イソップのアリとキリギリスをこのような解釈で話を聞いたことがなかったからです。

 

 子どもの頃、見るもの、聞くもの、はじめて知ることに1つ1つ心踊っていた感覚が、大人になればなるほど、1つ1つ失っていくのかもしれません。とくに専門的な知識と経験をつむと、やがて大切な感性を失い、日常で暮らしている皆さんとずれていく危険性があるかもしれません。

 

 皆さんは、人ごみに流されていませんか?

 

 苦しいときや悲しいときは、ふりかえるチャンスです。
 経験の中であたりまえと思っていたことが、実はまったく違った世界観に変わっているかもしれません。

 

 どうか経験という自信に溺れてしまわないように。どうか大切な感性を失わないように。

 

 その子は、最後にこう言いました。僕はアリにはなりたくない。

 

今日も良い1日でありますように。

 


人ごみに 流されて
変わってゆく私を
あなたは ときどき遠くで叱って
あなたは 私の 青春そのもの

(卒業写真 荒井由実)

 

小澤 竹俊

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