<たとえ思い通りにいかなかったとしても、全ての希望を失うわけではない>

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 2020年は、春も夏も甲子園で開催される高校野球の大会は中止となった歴史的な年となりました。

 今までどれほど苦しくても、どれほどつらくても、厳しい練習に耐えてきたのは甲子園に行くためであった。そのような高校球児の夢ははかなくも消えてしまいました。

特に高校3年生にとっては、もう2度と甲子園に行くという夢を叶えることはできません。無念な思いを考えると、胸が苦しくなります。

 私たちの人生は、しばしば思いとおりにいきません。楽しみにしていた家族旅行が台風で中止になり、今まで順調に仕事をしていた人が、病気のために休職を余儀なくされます。

 なんで!どうして!と、かなわぬ思いに声を上げる人もいます。この苦しみや怒りを誰にぶつけたら良いのか!と叫び続けても、厳しい現実が目の前にありつづけます。

 いのちに限りがあると知った人達も同じような苦しみを味わいます。あるとき、体調不良から病院に受診され、不治の病と知ると、今まであたりまえであった生活が一変します。

 先月までは仕事に行くことができていた。つい先日までは子どもたちと一緒に食事にでかけていた。今年の夏休みには田舎に帰省して同窓会を予定している。なのに、なんで急に、こんな病気にならなければいけない!

 もっと仕事を続けたい。もっと子どもたちと一緒に過ごしたい。もう一度田舎にいって、幼なじみに会いたい。もっと生きていたい…。

 苦しむ人の力になりたいと願っても、私にできることは、ひたすら理不尽な苦しみを一緒に味わうことぐらいしかできません。それでも、1つの可能性を学びました。

 たとえ思い通りにいかなかったとしても、全ての希望を失うわけではない

 このように感じるのは、まさにこの苦しみの中で小さな希望の灯をみつけていく人達と出会ってきたからです。なぜならば、あたりまえのことが、あたりまえでなくなるとき、何気ない1つ1つが粒だった大切なものに感じるようになるからです。

 何気ない家族の手があたたかいこと
 何気ない友人の言葉がとてもうれしいこと
 今まで見過ごしていた庭に咲く花がいかに美しいのかに気づき
 今まで聴き逃していた音楽に涙を流します

 絶望に思える暗闇であったとしても、全ての希望を失うわけではありません。人は、たとえいのちが限られる苦しみの中にあっても、笑顔を取りもどす人がいるからです。

何に気づくかは人によって異なるかもしれません。それぞれ私たちには、かけがえのない何かが与えられています。その何かを感じることができれば、小さな希望の灯を捜すことは、決して難しくありません。

 たとえいのちが限られていても、お世話になった人にお礼ができる
 たとえいのちが限られていても、子どもたちに、学んで来た人生の教訓を伝えることができる
 たとえいのちが限られていても、天国から家族を見守ることができる
 たとえいのちが限られていても…私は、私としてここにいる。

 今はかなわない夢であったとしても、その思いは、様々な形で継がれていきます。その可能性があるかぎり、たとえ絶望にあっても、全ての希望を失うわけではありません。

 甲子園を目指し、今まで練習を積み重ねてきた経験は、人生のこれから、どのような形で花開くかはわかりません。どんなことも、無駄なことは1つもありません。いつか、今の悔しさが、将来出会う誰かへの優しさに変わることでしょう

 いつかそんな日が来ることを夢見ています。
 今日も良い1日でありますように。

#コロナ4Cチャレン

 

小澤 竹俊

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