訪問看護員
名越瑛輝さま
(ELC第117回生)
私は介護職(施設介護・訪問介護・居宅介護)3年目です。私がエンドオブライフ・ケア協会に出会ったのは、主に施設で利用者様と関わることについて自分の中でモヤモヤしていた、ちょうどそんな時期でした。
「はやくお迎えが来て欲しい」「はやく死にたい」そう話される利用者様が時々いらっしゃいます。身体はあちこち痛むし、思うように動けない。お風呂もお手洗いも1人で行けない、なさけない。コロナ禍もあり外出することも、ご家族様と面会することもできませんでした。
私が未経験から介護職デビューをした、その老健では職員の慢性的な人手不足もあり、介護も看護も常に時間に追われながら仕事をしていました。たくさんの利用者様に、職員の数は少なく、一部の先輩介護士は作業のようにスピーディさだけを追求するようになっていました。施設で過ごされている間、職員はご家族様よりも頻繁に顔を合わせ、言葉を交わします。人生の最後の瞬間に立ち会うこともあります。自分達には一体何ができるんだろう。どうすればいいんだろう。私は毎日モヤモヤしていました。
そんなある日、『プロフェッショナル仕事の流儀』で小澤先生を見ました。素直に、「やべぇ。かっけぇ。(意訳:心に響き、深く感動した)」と思いました。その後、ディグニティセラピーを検索していて、エンドオブライフ・ケア協会のHPとeラーニングや書籍を知り、ポチッ、ポチッとクリックしている自分がいました。しばらくして我が家に届いた小澤先生の書籍の中に《シェフの気まぐれサラダぐらいならば,ある程度のお店の品質があれば,お願いしてもよいでしょうが,人生を左右する出来事や,自分の大切な身体のことをゆだねる相手となると,誰でもよいわけではありません。心から信頼できる相手を選ぶ必要があります。(「苦しむ患者さんから逃げない!医療者のための実践スピリチュアルケア」より)》とあり、もしも、私が1人でお風呂やお手洗いに行けなくなったとしても…この人ならゆだねることができるかもしれないと思う、信頼できる介護士さんや看護師さんたちの顔が浮かびました。
その後、援助者養成基礎講座(大阪)に参加させて頂きました。苦しんでいる人の力になりたい。そう思う人たちが会場にも、そして全国にもこんなにたくさんいることを知りました。講座では、ロールプレイで「反復」の練習をして書籍では得ることのできない、あの空気感も学びました。心のモヤモヤが晴れていくような気がしました。嬉しかったんです。
その日、帰宅して夕食を作っていました。作りながら、私が「今日はどんだけ嬉しかったんかわからん。本当に嬉しかった。(訳:今日はどれ程嬉しかったのかわからない。本当に嬉しかった。)」とつぶやくと小2の息子が「嬉しかった。そう思うんですね。」と私のつぶやきを拾って反復して返してくれました。私は思わず「そうなんですよ!……えっ。なんで知ってるん(訳:そうなんですよ!……えっ。どうして(反復を)知っているのですか)?!」と言っていました。息子は私がeラーニングで学んでいるのを実はこっそり聞いていた、と少しニヤニヤしながら教えてくれました(ゴロゴロしながら私の後ろでマンガを読んでいただけではなかったのです)。小1の娘は、家ではあまり話さなかったのですが、反復すると学校のこと、友達のこと、いろいろ教えてくれました。
……そして、私は現場に戻りました。学んだことを、拙いながらも実践しています。当たり前かもしれませんが、家庭、職場、日々の暮らしの中で、難しいと感じる時もありました。全部がうまくゆくわけではありません。けれど、お互いが今までとは明らかに違っていました。講座後、施設で相変わらず業務に追われていましたが、できるだけお話しやすいように、ほんの少しの時間だったとしても、永遠に時間があるかのようにその場にいようと努めました。
今まで同じ話ばかり繰り返されていた利用者様から新しいエピソードがどんどん出てきたり、いつも苦しそうに「痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、、、、」と声を出されていた方や、介護拒否が強かった方の表情が和らいで普通にお話されたり、お話を聞いていくうちに利用者様から笑みがこぼれたり、目がキラキラする瞬間があったりと本当に驚きの連続でした。忘れられないのは、お迎えが近かった90代の女性です。いつ急変してもおかしくない状態でした。訪室すると、私の手を握り小さな声で「あなたの顔をみると、元気になる。」そう話して下さいました。あふれだしそうになる涙をぐっとこらえて笑顔で頷くのが精いっぱいでした。数日後お亡くなりになり、これが私とこの方との最後の会話となりました。
そのようなお別れがあり、介護職をはじめたきっかけとなる出来事を思い出しました。
それは私が中学2年生の3学期でした。父が仕事中に脳出血で倒れました。母はもともと病弱でした。父が倒れた時、母は何の病気だったのかは不明ですが、手術後で入院中でした。術後の回復は順調で、退院することができましたが、父のお見舞いに行ったあと疲れが出たのか、寝込んでしまい、私が中学校から帰宅すると布団の中で、すでに意識はなく、かろうじて呼吸をする音だけがしていました。救急車を呼び病院へ向かいましたが、そのまま亡くなりました。肺炎でした。51才でした。私は母の最後の瞬間にそばにいたのに、当時まだ反抗期だったこともあって、なにもできませんでした。
そうして、様々な事情があり、中学2年生から一人暮らしをすることになりました。中学校の同級生のお母さん(看護師さんでした)は不規則な勤務で大変だったはずなのに卒業するまで毎日お弁当を作ってくれたりと、今思っても、本当にたくさんの方が気にかけて、支えて下さいました。皆、引っ越ししたり転勤したりとずいぶん環境が変わってしまって、直接お礼が言えない方もたくさんいます。そういったことがあって、少しずつかもしれないけれど成長して何らかの形で社会のお役に立ち、還元していくことができれば思うようになりました。
脳出血で倒れた父は現在も後遺症で右麻痺と失語症があります。幸い、生来の社交的でユーモラスな性格もあって、今はサ高住(サービス付き高齢者向け住宅)で大好きなお酒を嗜みながらヘルパーさんには家族以上と言ってもよい程よくして頂き、楽しく生活できているようです。そんな風に、過ごせている父とヘルパーさんを見ていると、いいなぁ。と感じるようになりました。仲の良い介護士の友人もわたしにヘルパーをすすめてくれました。
それが介護職をはじめたきっかけです。
最近、ふと、子どもの頃に小学校で合唱した「ビリーブ」の歌が頭の中に流れました。あの歌のようにやさしい世界を信じて、昨日より今日、今日よりも明日、明日より明後日、これからも学び、歩み続けようと思います。
エンドオブライフ・ケア協会では、このような学び・気づきの機会となる研修やイベントを開催しております。活動を応援してくださる方は、よろしければこちらから会員登録をお願いします。
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