コラム119:消えたかったわたしがいのちの授業を伝え続ける意味

  • 原点
  • いのちの授業
  • 対話
  • 赦す

合同会社 オフィスK 看護師・介護支援専門員

臼井 啓子さま

(ELC第23回生、認定エンドオブライフ・ケア援助士、認定ELCファシリテーター、折れない心を育てる いのちの授業レベル1認定講師)

 もう何度授業という名の「お話」をしただろうと、ふと考えていた。そもそも、この活動に、どうして関わり続けているのか?


 振り返ると、私は、自己肯定感が低い、でもそこそこ勉強はできる複雑な心理状態をもった子供であったように思う。良い成績をとると、学校では褒めてくれる人もいる、先生もいる。でも家では褒めてくれず、悪い成績だと叱責する母親、母の前では良い子にふるまう姉、そんな家庭環境の中で、成績に無関心の父親は、私にとって支えであったように思うが、忙しくてゆっくり接することもない。そして、人付き合いが苦手な子供であったため、学校は嫌いだった。いじめられた経験もある。家にも学校にも居場所がなく(これは勝手に私が思っていたのだが)何度「消えてなくなりたい」と思ったことだろう。


 しかし、子供ってなんで母親の承認が欲しいのだろうか。私は大人になるまで、決して好きという感情はないのに、母親の承認を求め続けていたように思う。人並みに反抗期もあり、母は母で私の扱いに悩んでいたようだが、認めてもらえた感じがしたことは一度もない。だからなのか、早く家を出たくて仕方がなかった。


 看護学校に行くことも母には反対されたが、父が推してくれたこともあり、進学した。1年は家から通ったが、当初から2年目からは家を出て寮生活をしようと目論んでいた。十分通える距離なのにと、父からは反対されたが押し切った。母は反対も賛成もしなかった。何を言ってよいのかわからなかったのかもしれない。そこから病気をしたりして、退院後実家で生活することもあったが、基本的には実家に完全に戻ることはなかった。就職後も実家に戻ったほうが良いのかと戻った時期もあったが、やはり母親と衝突したことがきっかけで、半年ほどで一人暮らしを選んだ。親子でも「合う」「合わない」は絶対にあるのだ。そして、私にとってはそれは「解決できない苦しみ」であったと今ならわかる。


 いのちの授業を伝えだしてから、なぜか自分の人生、とりわけ子供のころを振り返るようになった。母親の承認が欲しかったなんて、振り返ることもなかったのに、子供たちの前に立ち、一緒に「苦しみ」について考えると、どうしても自分の子供時代がオーバーラップしてしまうようだ。


 大人になって、母親も年老いていく中で、折り合いは決して良くないながらも、私なりに母を理解しようとするようになった。決して100%理解はできないのだが、母自身も育ての親(私にとっての祖母は血は繋がっていなかった)との関係性に悩んでいたのだろうことや、愛情を感じることなく育ち、自分の子供を愛することが、どういうことなのかわからなかったのかもしれないな、と推測するようになった。自分の中に「赦す」感情、それは母親を赦すではなく、承認を求め続けた自分を赦す感情が芽生えたのもその頃である。それは私もヒトの親になったからかもしれない。


 小澤先生の研修を受けて、いろいろ腹落ちすることもあり、支えとなる仲間もできた。仕事でも活かせるようにもなってきた。やはり一番の「学び」は、子供たちに話をすることのように思う。私自身が体感しているのである。解決できない苦しみを抱えながらも穏やかに生きる、ということを。


 母との関係性を何度も何度も反芻する機会になり、私が支えを知らず知らずに見つけてきたこと、自分を赦し認めることができるようになってきたことを、話をしながら、子供たちと一緒に考えながら、感じている。

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